法隆寺 金堂 釈迦 三 尊像。 法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘とは

三 法隆寺 尊像 釈迦 金堂 三 法隆寺 尊像 釈迦 金堂

無断複製等の行為は、法律で一切禁止されております。 周縁部には計7体の化仏(けぶつ)を表す。 は、「当初から像と台座が一具であったことを示すもので、銘文を後刻したとは考えにくい。

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本銘文の書風の特徴の一つにとが尖りがちであることが挙げられるが、この特徴はには程遠いといえる。 頭光の中心部には蓮肉部の大きい単弁の文を置き、これの周囲には同心円状に輻状文帯、重圏文帯、連珠文帯、忍冬唐草文帯が順にめぐる。
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翌年(622年)正月22日には太子も病に臥し、膳妃も看病疲れで並んで床に着いた。 釈迦三尊像については、法隆寺建立以前にの地に建てられていた聖徳太子の斑鳩宮にもと安置されていたとする説もある。 これらの絵画は現状では剥落が激しく、肉眼では図様を確認することはほとんど不可能であるが、山岳、樹木、、などが描かれ、全体としては世界を表すものと考えられている。

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なお、の銘文にも本銘文と同じ太子の没年月日が見える。 それは同書が成立した、時のが太子をにする必要があったことによるらしい。
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仍りて親ら経を 説く日に、誓願ひて曰はく、「日本國に聖人有す。 大橋は、正倉院文書以前の現存する文書資料自体が乏しく、その中に「仏師」の語が書き残される確率は低いことから、本銘文が「仏師」の語の使用の初例であっても不自然ではないとする。 両腕から体側へ垂れる天衣は、東脇侍・西脇侍ともに中尊に近い側が長く、反対側が短くなっている。

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愁毒(しゅうどく)とは、愁えいたむこと。 山背大兄王の生母はであるが、山背大兄王は膳夫人の娘であるを妃としているので、膳夫人は義母にあたる。
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下座の下框上段の補足材には数か所に墨書があり、そのなかに「辛巳年八月九月〔原文ママ〕作」の文字がある。

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上宮豊聡耳皇子と曰す。 伊予國風土記 1 伊予風土記に依ると、伊予の湯を訪れたのは「上宮聖徳の皇子」「高麗の恵慈の僧」「葛城臣」である。
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愁毒(しゅうどく)とは、愁えいたむこと。 これを指摘したのは水野敬三郎(1974年の論文)であった。

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両脇侍像は正面から見ると丸彫像のように見えるが、背面は空洞で、背面の造形を全く省略している。 クスノキ材を用いた一木造で、四天王本体は手首先等を除き一材から大半を彫成し、内到はおこなわない。
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623年刻字の否定説 [ ] 623年の刻字を否定する説の根拠としては、以下のことがあげられている。

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施無畏与願印(せむい・よがんいん) - 如来像の印相(両手の構え)のうち代表的なもの。
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なお、法隆寺釈迦三尊像は、大衣の着装法に仏とは異なる独特のものがあることが指摘されている。 『日本語の誕生 古代の文字と表記』(、新版2008年(初版2003年))ISBN 978-4-642-05551-2• )には銘文が刻されており、これについては、「流麗な南朝系の楷書で書かれている。

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現存する金堂は7世紀末頃の建築とみられる。
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天衣(てんね) - 菩薩、天人などが両肩から垂らしている細長い布。 そして亡くなったのが法興32年である。 造像の施主とは、造像の発願者のことであり、聖徳太子の妃()・王子(ら)・諸臣である。

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後世の三尊像では、左脇侍と右脇侍は両手の構えなどを対称形に表すのが普通だが、本三尊像の両脇侍は左右ともほぼ同形である(以下の脇侍像に関する説明は、特に断らない限り東西脇侍像に共通)。
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癸未年三月中、 如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘嚴 具竟。

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作者 [ ] 本三尊像の作者は、光背銘によれば司馬鞍首止利仏師、すなわち鞍作止利(鳥)である。 此の願力を蒙り、病を転じて寿を延べ、世間に安住せむ。